今何してる?

U.Zのネット版日記

心と躰は二にして一。一にして二つに分かれている

この記事のタイトルとなっているのは、上泉伊勢守の言葉である。

前回の記事に書いたとおり、人気漫画家は見たり読んだりした作品のメモを書き残しておき、自分の漫画の材料として蓄えるらしい。自分もそれに倣いここにメモしたいと思う。いわゆる夏休みの宿題と同じ、読書感想文である。

ところで、前回の記事を書いて気づいたのだが、このブログに書き込みすると勝手にキーワードにリンクが貼られるらしいではないか。(リンク先は、はてなキーワードに載ってること限定だが)

自分の記事に書いた柳生石舟斎のことやら上泉伊勢守のことが、文字をクリックするとそのまま調べられるとはなかなか驚いた。自分が書いたことに偽りがなかったことを確認し少しホッとした。

ではここで感想を書こう。書くといっても、自分には文章力もなければ読解力・記憶力も不足しているので、覚えている範囲で且つ小学生レベルのことしか書けないだろう。それでも自分が感じたことを書くことは良いことだって、前に誰かが言ってた気がする。だから恥は捨てていこうか。

とにかく主人公の上泉伊勢守がカッコよすぎた。潔さといい、覚悟といい、ほぼ実話なのにフィクションでは? と疑うぐらいに常人離れした行動や物事のとらえ方をする人物であった。戦闘シーンでは人間離れしすぎていると、実際に相手していた人がそう思ったと書かれているほどだ。

上泉伊勢守といえば剣道の竹刀を発明した人物としても有名らしい。(当時は形こそ違ったらしいが)剣とは人を斬るものではなく、逆に人の心身を活かすもの。そして他ならぬ自身の人格を鍛えるもの。と考えていたらしい。確かにこの考えは剣道をかじったことのある者なら、剣道の理念に共通していることに気づくだろう。(と言ってるU.Z自身が剣道の未経験者であるがw)

上泉伊勢守は剣の達人となったあとで、世はまだ戦国の真っただ中であるにも関わらず「活人剣」の道へと進んだのである。

自分がここで思ったことが、「もしかしてこの人がいなければ『刀』という道具は『殺人剣』の為だけの道具として認識され、必要なくなった現代では既に姿を消していたのでは?」ということであった。

現代では人を殺すのに刀よりも銃を使う方が圧倒的に簡単である。であれば殺しにしか用途がない刀はいらなくなるのが道理である。扱いにくいし、自分が怪我することもあるし、何よりも作るのが大変なのに錆びると使い物にならないからだ。

しかし、現在も確かにその刀は存在している。美術品として扱われるだけのものが多い気もするが、つまりそれは現在もその刀が作られていて、そして使われもしているということだ。それは何故か? 無論、上泉伊勢守の「活人剣」が現代にまで継承されてきたからであろう。

今も、先人の研究してきたものを絶やさぬと「殺人剣」を学んでいる者もなかにはいるかもしれない。しかし実際に人を斬ることはない。

対して「活人剣」の技と心得は確かに今現在の日本でも生きている。誰かを活かすためか、自分を鍛えるためか、剣道家や警察官が主にその心を受け継いでいき、国のために使っているのだ。

こうして見ると、やはり上泉伊勢守がどれほど素晴らしい人物だったかがうかがえる。

他にも、ヒロイン的ポジションにいた上泉伊勢守の弟子、於富という女性が男よりも勇ましく武人として散って逝く姿や、上泉伊勢守の弟子、疋田文五郎と柳生石舟斎と打ち合い稽古のシーン。

そしてラストの十河九郎兵と上泉伊勢守の死合いは、前回書いたように高クオリティで映像が脳内再生された自分の中でのベストシーンであった。